一ノ瀬高橋の歴史


一ノ瀬高橋の歴史 -多摩川最上流の村- (年表)


一ノ瀬高橋の歴史 -多摩川最上流の村- (年表)

「民宿しゃくなげ」の田邊かをるさんから資料をお借りしました。
どなたがまとめたものかわからないそうです。

年号 西暦  事 項
明応7 1498  『王代記』(窪八幡神社別当上之坊普賢寺住持による)に「金山くづれ」の語りあり。この頃すでに「黒川金山」稼業か?
元亀2 1571  黒川金山に直接関係する最古の古文書「武田家諸役免許状」金山衆田辺四郎佐衛門あて
    近年行われた発掘調査により、黒川金山は15世紀末(1400年終頃)開発され、16世紀前半(1500年前半)に盛期を迎えたと推定される。
発掘調査の結果、黒川金山には400軒からの家屋が存在していたは確実である。とされ、当時、一ノ瀬高橋は金堀たちが通い作場として焼畑耕作に使われていた土地であったと想定されている。 
元亀4 1573 武田信玄没 
大正5 1577 産金減少を伝える文書「武田勝頼、黒川金山衆の諸役を免除」このころから産金は減少しつつあったようである。 
大正10 1582 武田勝頼自害 武田家滅亡 
寛永17 1640 黒川金堀「秩父股の沢金山・出羽延沢銀山採掘願」提出 この文章から黒川金山が確実に衰退期に入ったことを物語る。慶長元年(1648年)にも同様文章あり。
この頃、離散していく金堀たちの一部が黒川金山から一ノ瀬高橋に移住を始めたと推定される。集落は一ノ瀬(一ノ瀬川)・高橋(高橋川)・刑部平(柳沢川) 刑部平は18世紀に入り消滅 
寛文11 1671 一ノ瀬・高橋の百姓生活困窮から、徳美藩より金弐拾両弐分を借用。 延宝2年にも米32俵借用 
延宝2 1674 萩原10ヶ村と丹波村との間に山境論(上野福男『近世萩原山の泉水谷流域における国中萩原村と郡内丹波山村との間の境界論争』)起こる。
 この山論により一ノ瀬・高橋・刑部平の3集落、萩原10ヶ村の枝郷の位置確定。(年貢。訴訟など、親郷である萩原10ヶ村経由となる) この頃、黒川には3軒の家と12人が留まっており、一ノ瀬・高橋・刑部平には30軒ほどの民家が存在した。「萩原10ヶ村と丹波山村山境論公事留書」による 
享保9 1742 『萩原10ヶ村入会山明細帳』 両沢(一ノ瀬・高橋)家数42軒(本百姓34 水吞6 寺院2)人数 139人(男73 女64 僧2) 馬23 畑作 一毛作(稗4 粟2 蕎麦3 野菜1) 男女家之儀 男農之間ニハ山内ニ而白箸并材木取申候、女ハ作物之間ニハ麻布ナド仕申候 
明和6 1769 秩父大滝村御林山における伐木山論(上野福男『近世多摩川水源山村の山稼行動と秩父滝御林山における山論』)起こる。水源山村の生計は「山稼」(優良木の伐採搬出)と焼畑耕作にたよっていたが、居住辺からの優良木の払底から分水嶺を越えたことによって起こった山論である。 一ノ瀬高橋、過料三貫文および山回り役 
宝暦6 1756  役所への拝借願 親郷10ヶ村年番宛提出 (・・・依之百姓ゆうべ死仕候様ニ相見江申候・・・) 
家数 35軒(うち寺院2) 人数 159 「下小田原村明細帳」 
文政5 1822 「一ノ瀬高橋惣代要右衛門・佐源太連署願書」枝郷一ノ瀬高橋にたいする、萩原10ヶ村からの差別に抗議して訴える。 
文政10 1827 家数38軒(うち寺院2) 人数206 (塩山市史 通史編上巻) 天保13年(1842)、青梅の商人山田早苗、高橋に至る。 
明治5 1873 戸数38 人口218(神金村役場資料) 幕末から明治初期にかけての戸数・人口は変わらない。(天保13年の家数、高橋16 一ノ瀬22) 
明治8 1875 神金村のうち旧一ノ瀬高橋組となる。 
明治9 1878 地租改正に伴う「山林原野官民有区分」調査開始 以後、明治14年まで官民有区分未定地となる。 一ノ瀬地区は、萩原10ヶ村の入会山であり、県下の入会山と同様の扱いを受けた。 
明治11 1878  6月 柳沢越えの青梅街道開通 落合集落出現 戸数7 一ノ瀬高橋の経済的地位向上 
9月 東京府吏員山城裕之 多摩川水源「水干」を究める。
明治14 1881 官有地(官有山林原野)に編入 16年「官有山林原野払下条規」発布 樹木の伐採、放火が横行した。 
明治22 1889 皇室御料地(世伝御料地(林)に編入 23年、「草木払下規則」施行 御料地の荒廃は進行した。
戸数80 戸数の極端な増加は、「青梅街道」開設と「山稼」・「焼畑耕作」の盛大化の相関関係による一ノ瀬高梁地区の経済的地位の向上によるものである。 
明治40 1907 8月21日夜半からの豪雨により山梨県一帯に大水害起こる。柳沢峠を挟んで道路は全滅し落合で4戸流出1名死亡、耕地は壊滅し、交通断絶のため住民は餓死に瀕して馬を殺して食料としている。と救助を求めた一ノ瀬高橋地区区長雨宮武十郎は語っている。
泉水谷府有林における22日から一週間の雨量は994.7mmに達した。 
明治44 1911 3月、御料林、山梨県に下賜される。東京市は直ちに一ノ瀬高橋地区を買収する。
東京都は明治34年には山梨県丹波山村・小菅村の普通御料林を買収し水源林の経営に乗り出し、明治43年には東京市によって経営は引き継がれた。
林産物の処分は、県知事と東京市長との間で交わされた「覚書」により、「山梨県恩賜県有財産管理規則」に準拠されることになった。これによる交付金は「萩原山恩賜県有財産保護管理会」の運営資金にあてられ、一ノ瀬高橋の住民には直接の関係はなかった。
大正1 1912 10月、東京市水源林事務所落合派出所設置 大正3年 市有林監視のための「請願巡査派出所」設置
大正2 1913 一ノ瀬高橋地区の無立木地2,000町歩強の植林を開始 15年完了 大正7年5月21日より水神社祭始まる。
大正10 1921 朝鮮人に対する差別事件起こる。植林事業には毎年100名を越える労務者が従事していたが、その三分の一は故郷を離れた朝鮮人であった。5月21日、水源祭恒例の相撲大会を機に発生した騒乱事件は、当時の山梨日日新聞に大きく報道された。
判決 朝鮮人側、騒乱罪適用 懲役4ヵ月7名 罰金刑50円2名 同30円7名 同20円1名  日本人側、傷害罪適用 懲役3ヵ月1名 同2ヵ月1名 罰金刑40円2名 同30円4名  日本人側から仕掛けられた朝鮮人に対する差別事件であったにも関わらず、当時の社会情勢を反映した不当な判決であった。
昭和27 1952 甲府・青梅線(「青梅街道」 現、国道411号)改修工事 柳沢~落合間部分開通
昭和29 1954 4月、塩山市制施行 塩山市一ノ瀬高橋となる。戸数105 人口550 この頃、戸数・人口ピーク
    12月、自家発電施設完成 昭和43年11月、東京電力により本格通電をみる。
昭和33 1958 6月、塩山・落合間バス開通 57年10月、廃止
昭和34 1959 主要地方道 甲府青梅線全線開通 57年、国道411号線に編入
    中央線塩山駅・青梅線氷川駅間バス相互乗入 1日3往復 数年で運行中止
平成9年 1997 戸数32 人口69 過疎化進行



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